ソット・ヴォーチェ



蘇州で対面した、沈蘇斐女史 A
江蘇省東呉外国語師範学校の生徒達は、校門から花道をつくり我々を迎えてくれました。円形のモダンなホ−ルには、グランドピアノがありました!これまで出会った中国とは明らかに違っていました。これから始まる交流公演や沈先生のことを想い、熱いエネルギ−が沸いてくるようでした。
公演前に先ずは、セレモニ−。(この国は、どこでもセレモニ−が長く、いつも公演がだいぶ延びます!)お互いの代表が挨拶し、役員を紹介し、記念品贈呈等もあり...。
中国側の演奏者の代表として、小柄で上品な女性が挨拶をしました。通訳の紹介で、その人が沈蘇斐女史であることが解りました!
私は、驚きと感動を隠せませんでした。(文革の頃40〜50代と思いますので、その時は80歳前後のはずです。)その穏やかな表情と、美しく年齢を重ねられた姿からは、誰も”地獄を見た人”を想像することができないでしょう!
公演が終わるまでは、遠くから見ているだけの私でした。歌い手としては引退なさっていましたが、後進の育成に務め、指揮者として堂々と舞台に立つ姿は、現役バリバリの音楽家でした。
私は、その方と同じ舞台に立てることを、誰に感謝すればいいのだろう?!と思いながら、歌う準備を始めました。生徒達が喜ぶというので、私は、着物で歌うことになっており、たまたま「夕鶴」を歌った折の白い着物を持って行きましたが、沈先生を前に、真っ白な気持ちで歌えたような気がしました。
プログラム進行中は、直接の対面はできず、公演時間が予定より延びたことにより、「終了後はすぐ出発」という連絡が流れ「このままは帰れない!」と焦りました。でも、素敵な瞬間が訪れました。最後に、出演者全員が舞台に乗り、「蛍の光」を歌う場面です。
会場が真っ暗になり、出演者がペンライトを持ちながら歌うという演出の中、沈蘇斐先生が、思いがけず、私の隣に並んだのです!私は、歌うことを止め、先生に握手を求めました。ず-っと尊敬していたその人を前に、ただただ、涙が溢れました。手を握り合うだけで充分でしたが、先生は、私を抱きしめて下さいました。かつてアメリカのオペラハウスでも歌っておられた先生は英語を話しました。「着物が似合いますね。」「貴女の歌にはハ−トがあります。いい時代に生きているのですから、がんばって歌って下さい」...
これ以上の幸福はありません!舞台に並んだ大勢の出演者の中、二人で交し合った言葉..生涯、忘れることは無いでしょう。「蛍の光」が3番まで歌い終わるまでに、どうしても聞いておきたいことがありました!
「先生のエピソ−ドは知っています。歌えなかった時はどんなにか、辛かったでしょう?!」「喉を潰されたり、殺害された音楽家もいました。私は幸い、喉を潰された訳ではありません。きっと、歌える日が来ると信じていました。悲しかったことは、目の前で、ピアノが叩き壊されていったことです...」私は、これまでの疑問が全て解明されたと思いました。後に、聞いたのですが、この年、沈蘇斐女史は、80歳だったそうです。まだまだ、お元気で、若く美しい先生です。自由に音楽活動が出来る喜びを、多くの人々に伝えて下さることを願います!(涙を拭いている私を見た人達は、日中合同の「蛍の光」に感動しているように思ったに違いありません)


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文化大革命当時の映画で、ピアノや楽器等を片っ端から壊していくシ−ンを見ました。各ホ−ルにピアノが無かったとき、何故、そのことと結び付けられなかったのでしょう?沈先生の言葉で気がついた私でした。昨今の中国は、国際都市、上海はもちろん、北京でのオリンピックに向け、めざましい発展を遂げています。
近代的なビルがどんどん建ち、外見上は立派な施設も増えていますが、内部の設備までは整えられない現状と察します。昔からある劇場は、文革前には、ピアノがあったはずです。広い国ゆえ、先ずは建築..ということになり、グランドピアノの予算まではとれないという事でしょう。数年間の誤った文革で失ったものを、何十年もかけて取り戻さなければいけないのです!それは音楽だけに限らないと思います。改めて、国の真の指導者とは?と考えさせられました。(完)