音楽ゆかりの地をゆく



運命の歌−“ファド”前編
 2006年5/30〜6/5.念願のポルトガル旅行が実現しました。
周囲の人達から「何故ポルトガルなの?」と聞かれました。結構、マイナーな国なのでしょうか?
私の目的はタイトルどおり“世界遺産とファドに触れる旅”でしたから、ポルトガルでなくてはいけなかったのです。
特に、世界遺産は世界中に存在しますが「ファド」は他の国にはありません。
 たまたま“20世紀の三大歌姫”というフレーズを目にし、その一人に、ファド歌手のアマリア・ロドリゲスが数えられていることを知り、私の心はまだ見ぬポルトガルに飛んでいました。

 声楽家の端くれですから、青春時代、基本となる歌はイタリアで学び、オペラから土地の歌(ナポリターナ)までむさぼるように聴きました。
次に大音楽家の故郷であるドイツやウィーンでドイツ圏の歌の格調高さや優雅さを吸収しました。
やがて、クラシックと他のジャンルの歌の垣根が邪魔になった私は、世界中の国々で歌い継がれている歌を知りたくなりました。
ミュージカル.カンツォーネ.シャンソン.ロシアロマンス.スペインのトゥーナ等...
それぞれのお国柄が反映され、みなオンリーワンの魅力を持っています。
日本人というより地球人として、これらの“歌達”を愛し、クラシックの声楽曲と同等にコンサートで歌って行くことが私のポリシーとなって来た矢先のことです。私は“運命の歌”に出会いました!

 ポルトガルの民衆歌謡として知られている「ファド」は「運命」とか「宿命」という意味を持つと聞きました。
また「ファド」の心は、ポルトガル人独特の魂「サウダーデ」という言葉で語られることも解かりました。
それは、失ってしまった人、土地、時間などに対する郷愁を表すもので、懐かしさ、悲しさ、やるせなさなどが入り交じった、ポルトガル人にしか理解できない感情らしいのです。
「ファド」の起源は、大航海時代にイスラム、アフリカ、ブラジルなどの民族音楽がポルトガルに伝わり、19世紀半ばにリスボンの下町で生まれたと言われています。
当初は、場末の酒場やカフェで歌われ、船乗りや売春婦、浮浪者など、社会の底辺に生きている人々が聴く音楽だったそうですが、1954年のフランス映画「テージョ川の恋人たち」の中で、アマリア・ロドリゲスが“暗いはしけ”を歌い、世界的に「ファド」が知られるようになったと伝えられています。(残念ながら、私はその映画を知りません。もう少し早く生まれていたら、彼女の人生とともに歩めたかも知れません。リアルタイムで女王の歌声を聴けたにちがいありません。)

 『アマリアは個性的な声質と歌唱力で、それまで大衆歌謡だった「ファド」を芸術の域まで高め、ポルトガル国民のみならず、世界中の人々から“ファドの女王”として愛された』..という文章を読み、ポルトガルに向かった私ですが、それは、ポルトガルに到着するまで実感できないものでした。
“百聞は一見にしかず”とはよく言ったものです。アマリア・ロドリゲスは真に“ファドの女王”でした!
今もなお、ポルトガル国民の誇りであることも感じ取りました。

 2006.6/3.忘れられない運命の日になりました。私たちは「アマリア・ロドリゲス記念館」を訪れました。
ここは、現地のガイドさんも知らないスポットでした。「アマリアが住んでいた家ということで、バスで通るだけの場所です」と言うのです。
ここまで来て見ないで帰るのは、きっと後悔すると思い私は「とにかく車から降りて、家の前まで行ってみたい!」と懇願しました。(家の前で写真を写すだけでもいいと思ったのです。)住宅街を歩き、私たちはそこに着いて歓声をあげました。
記念館として、内部が公開されていたのです!
アマリアが1999年に亡くなるまで住んでいた屋敷でした。
一階は、入場受付や小さな売店があり、内部の階段を昇ると、アマリアが生活していたままの部屋が保存されていました。
どの部屋も18世紀のアズレージョやタペストリーで飾られ、英国製テーブルウェアが並べられたリビング.(グランドピアノの上には、沢山の楽譜、音楽書、CD等が載っていました)豪華な客室.ベッドルーム等が、あたかも時間がそこで止まってしまったかのように、女王の香りが残されていました。
 数多いアンティークやアクセサリーは、アマリア自身が集めたものやファンから贈られたものでした
。ステージ衣装や各国から授与された勲章なども展示されている他、クロークルームには普段着がつるされていて、今にも、隣室からアマリアが現れそうな気がするほどでした。
当初のスケジュールに組まれてなかった、この嬉しいハプニングに感謝せずにはいられません。
「アマリア・ロドリゲス記念館」は、私たちの“ポルトガルの旅”を一層、美しく飾ってくれくれました。
アマリアの偉大さと「ファド」の深さをここで感じ取り、今、彼女の後継者達が歌う「ファド」に触れることができたことは何と幸せなことだったでしょう!まさに私にとっても「運命の歌」になりました。
今も、毎夜、沢山のファドレストランで「ファド」は歌われています。これほど、リスボンに根付いているとは想像もつきませんでした。
もしかして、フランスのシャンソンやイタリアのカンツォーネより逞しくこの国に残って行くに違いないと確信しました。

 *アマリア・ロドリゲスが全盛期の頃は「アマリアが風邪をひけば通貨の相場が下がる」
  とまで言われたそうです!1999年10月に亡くなったときは、国全体が3日間の喪に服
  してその死を悼んだといいます。如何に彼女がポルトガルのシンボル的存在であった
  かが偲ばれます。
  (この世を去った時は79歳でした。死因は自宅の浴室での心臓麻痺...その浴室も
   生々しく公開されていました。)

       ★後編では、「本場で触れたナマのファド」について綴っています。