ソット・ヴォーチェ



カチュ−シャとの馴れ初めは?@
何故、私がカチュ−シャと関わりがあるのか?よく尋ねられます。大体は「音大を出た者が行く所では無い」という偏見からきている疑問符と思っています。
話すと長くなりますが(記述するのは、もっと長いにちがいありませんが)今後、同じようなことを聞かれないよう、ここに公開しようと考えました。
私は学生時代、中央線沿線でしたので、遊びやショッピングには、吉祥寺に行っていました。ある日、某デパ−トの地下を歩いていると、歌声が聞こえてきました。音の方向へ歩いて行くと“歌声喫茶ともしび”があったのです。それが、歌声との初めての出会いでした。
入ってみると、老若男女、みな大きな声で歌っていました。
驚いたのは、歌集です。縦書きの歌詞しかないものを見て歌っているのです!
楽譜で音楽を覚える私には、そこで歌っている人たちが、不思議でした。音の長さや、間など、どうして分かるのだろうか?と。
後で解りました。ステ−ジのリ−ダ−達が歌唱指導をしていて、お客さん達は耳でリズムを覚え、歌詞だけの歌集で充分だったのです。それにしても、新鮮な驚きでした。
素晴らしい声のリ−ダ−も伴奏者も、みな独学と言うのです。自分のやっている音楽は何だったのだろう?とショックでもありました。
音大生なのに、そこのリ−ダ−より、上手くない人も知っていました。何より、この、音楽の楽しみ方は音大では学べないと感じました。
お店の人と話し、意気投合した私は、ともしび合唱団の研究生の講師を引き受けることになりました。音大生なら、譜面を読めて、ピアノも弾ける...重宝な人間が舞い込んできたと思われたかもしれません。
でも、今思うと、この日は私にとって必然だった気がします。合唱団の講師とは言っても、研究生は自分と同じくらいか、年上の人も多かったと思います。音楽的には先生でも、社会人である研究生の方が、人生の先輩で、色々、学ばせていただきました。歌も楽譜があるので、それを頼りに指導はできましたが、音大ではやらないような曲ばかりだったので、懸命に吸収しました。お店のステ−ジのリ−ダ−には素晴らしい方達がいました。日本の歌声の歴史を作ってきた人達でした。
様々なジャンルの歌を歌いこなし、それぞれ個性的で信念を持ち、ステ−ジに立っているように見えました。後に、そこで聞き覚えた世界中の歌が私の武器になりました。
講師になり、1年くらい経った頃、同業のカチュ−シャという店があることを知りました。そのカチュ−シャの渋谷店にピアノを入れたので、弾ける人を紹介して欲しいと、ともしびに話があったのです。
ショパンやベ−ト−ベンは弾けても、今すぐ、歌声の伴奏ができる人は、その辺にいないので、ともしびに相談があった訳です。
私は、短期間で吸収した歌声のレパ−トリ−をためしてみたくて、引き受けることにしました。バイトです。好きなピアノを弾いて収入が得られるのですから、幸せなことと思いました。
もちろん、学生が本業でしたから、カチュ−シャに行ったのは、週に数回だったと思います。そこで初めて、今も一緒にやっているKさんと出会ったのです。
学生の私から見ると、結構、おじさんに見えましたが、きっとKさんも若かったのでしょう。今よりずっとスマ−トだったのは確かです。
そこでは、Kさんや、ともしびとは一味ちがう客層から、また多くの刺激を受け、自分の音楽に栄養を補ってもらったと思っています。
そして、歌声との関わりは、音大を卒業するとともに終わりました。声楽の道が自分の本道でしたから。時代もだんだん、カラオケが全盛になり、歌声の店もどんどん縮小されていくのを、寂しい気持ちで、見ていました。
いつの日かカチュ−シャも閉店になり、Kさんも他の仕事についたことを風の便りに聞きました。
私は音楽の道に進み、家庭も持ち、「歌声」という言葉は遠い昔の響きになっていました。
ところが、数年前です。カチュ−シャが再開したという報がありました。
Kさんが、かり出され一人でたいへんな思いをしていることを知りました。再ブ−ムがやってくる予感か、テレビ、雑誌、新聞等の取材でてんてこ舞だったのです。
私は空いている日は手伝うことにしました。若き日にお世話になったご恩返しのつもりでした。それにしても、再び歌声の歌に巡り合うとは思ってもみませんでした!(Aに続く)    

  
旧カチューシャ内にて(新宿歌舞伎町)