ソット・ヴォーチェ



カチュ−シャとの馴れ初めは?A
新宿歌舞伎町のカチュ−シャは、開店当時(1955年)のままで残されており、ステンドグラス、壁の彫刻や、テ−ブル、椅子にいたるまで、味わいがあり、木のぬくもりが感じられました。私はこの場所で青春を過ごしていませんが、全盛期に通い歌った人達は、どんなに懐かしく思い、感動したことでしょう!再開のニュ−スとともに、かつてこのカチュ−シャで青春を過ごした世代の人達が次々と訪ねてくれました。みな人生の荒波をくぐり抜け、今の日本を築きあげてきた先輩達です。Kさんにとっては同胞であったでしょう。
歌声を経験した者たちにとって、カラオケはつまらなかったかも知れません。久々に返って来た歌声に第二の青春がスタ−トしたかのように見えた私でした。連夜、一人での司会に、リ−ダ−のKさんは、体調を崩すほどでした。それでも、歌声ブ−ム再来が嬉しかったのでしょう。休むことなく続けていたので、少しでも喉が休まればと思い、週末に私もお手伝いをしました。そしてさらに、カチュ−シャは盛り上がることに...観光バスでおなじみの、はとバスのコ−スに組み入れられたのです!都内の観光をし、最後にカチュ−シャの歌声を体験するという内容で、大好評!お花見の時季に、2年間続きました。
はとバスに乗って来る団体には、全国各地のお客様がいらしたので、東京の良い思い出が出来ればと、私の歌を聴いて頂く時間も入れました。ただ歌うだけではなく、カチュ−シャの建物にも価値があったので、はとバスのコ−スに入れて頂けたと思っています。
団体が帰った後は、通常の歌声タイムです。伴奏者一人、リ−ダ−一人(私は助手程度)この一組で、全ステ−ジをこなしたのですから、今さらながら驚きです。昔は交替するメンバ−がいました。他の店でも交替でやっているはずです。この頃は、仕事と言うより、スタッフはボランティアのように思えるほどでした。それだけ再開が喜ばしく、みな燃えていたのかもしれません。そんな充実した時期があまりにも突然、終わることになるとは夢にも思いませんでしたが、歌舞伎町での第二の青春は思うように続かなかったのです!経営者が止めると言えば、何も言えません。先代の社長が残した、老舗の歌声喫茶...ついに、現社長は閉じる宣告をしました。以前も、長いこと閉めていて、再開したくらいなので、気まぐれかも?..と思いましたが、みんなが好きなこの建物を壊してしまうことになったのです。もう、ほんとに歌声カチュ−シャは終わり!私もまた静かな生活に戻ろうと考えていたところ、第二の青春(?)に火がついたお客さん達が、歌う場が無くなる事を承知してくれないのです。Kさんや伴奏のOさんに、場所をみつけて来るので、何とか、続けて欲しいと願ったのです。歌いたいお客様の情熱には感動しました。この人達にとって歌声は安らぎの場、大切な、命の洗濯の場でもあった訳です。それから、カチュ−シャという名前だけを背負い、Kさんは、貸してくれる場所を転々としました。歌声に生涯をささげるという気迫がありました。私は静かな生活に戻るなんてム−ドではありませんでした。もう、私達は歌を通しての腐れ縁なんだ!と感じました。今、やっと落ち着いた新カチュ−シャは、前の広さとは比べ物にもならない、小さなスペ−スですが、歌声を守り通してきた者達の誇りと情熱が詰まっています。時代は変わりました。昔のままの歌声では先が見えています。良いものは守り、新しい歌も取り入れると共に、若い世代も交流できる店にしたいと考えています。海外からのお客様が突然、いらしても対応でき、日本の楽しい思い出を持ち帰って頂ける店でもありたい!と希望を持ち、臨んでいるこの頃です。私からみたカチュ−シャと自分の歴史を重ねてみましたが、改めて、面白い人生を歩んできたものだと呆れています。若い時に吸収したものは、本当に身体に染み込むものです!学生時代、バイトで覚えた何百もの曲...それを、その後の人生経験が磨き上げ、私の宝物ができました。
ステ−ジで歌う私、指導者である私、時にはカチュ−シャの歌姫であり、ピアニストでもある私、地域においては、団体の役員を務める私...どの私も大事なのです。どこでも完全燃焼です。それぞれの場で出会う皆様もまた宝物です。そして、ジャンルはちがっていても、みな同じ音楽で繋がっています!そう自分に言い聞かせ、本番と重ならない限りは、金.土曜日は、カチュ−シャにいる私なのです。歌と面白い人生に乾杯!!皆様、どうぞ遊びにいらして下さい!   (2004.春浅き日に。)