音楽ゆかりの地をゆく



不朽の名曲「荒城の月」
 日本の歌で戦前、海外に知られた曲が二曲あります。
一つは「さくら」であり、もう一つは「荒城の月」です。どちらの曲もいまだに、日本の代表的な歌として、欧米の人々に愛され、私も海外で歌わない訳にはいかないレパートリーとなっています。
 特に「荒城の月」(土井晩翠:詩.滝廉太郎:作曲)は、明治時代に作られてから、今もなお中学校の音楽教科書の中で、燦然と輝いています。
この名曲について常々、気になっていることがありました。スロバキアの音楽教授が知っているという「荒城の月」の旋律は、「はるこうろうの はなのえん〜」の「え」の部分の音が半音上がる(#が付く)ものでした。
「原曲には#が付いていた」と以前聞いたことがありましたが、外国の方に指摘されるとは複雑なものでした!
数年前、民族舞踊団シャリシャンが来日した折、向こうの歌い手が披露してくれた「荒城の月」は、原曲どおり半音上げて歌っていました。
記念にお土産に私が贈った楽譜を見て、教授は「この音に#が無いが、ミスプリではないか?」と言いました。
どのようにして広まったのかは定かではありませんが戦前、西欧に渡った楽譜は原曲だったと思われます。

 作曲家、滝廉太郎は明治12年、東京に生まれ、後に大分県竹田市で少年時代を過ごしたと言います。
この地には、「瀧廉太郎記念館」「旧家」が存在すると聞き、訪れてみたいと思いつつ、望みが果たされずにいたところ、昨夏(2005.8月)偶然、東京銀座にある“源吉兆庵”のギャラリーで「瀧廉太郎展」が催されていることを知り、ためらわずに入場しました。
心の中で「例のシャープ(#)の手がかりがあるかも知れない!」と叫んでいました。
大がかりなものではありませんでしたが、廉太郎の写真や直筆の楽譜、生い立ち等が短時間で理解出来るようまとめられていました。「あった!」...初版本の「荒城の月」です。
可愛い当時の教科書がガラスケースの中に並べられていました。
確かに「ハルコウロウノ ハナノエ(#)ン〜」でした。

 【資料で解ったこと】

 瀧廉太郎が東京音楽学校(現芸大)の学生の時、当時は学校の教科書に純粋な日本の歌が無く、外国の曲に日本の歌詞をつけた歌が主流だったので、教科書の唱歌を改革しようと、土井晩翠の詩に作曲することを募集しました。
廉太郎は在学中に「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」の3つの詩に曲を付け3曲とも入選しました。
以来、日本の子供達に歌われ続けてきました。
シャープ(#)が、いつから無くなったのか辿ると、大正6年の「中学唱歌」までは#があり、大正7年に山田耕筰が、三度上げて(原曲:ロ短調→ニ短調)編曲しました。その初版本にもまだ#があり、大正13年発行の楽譜では消えてしまっているのです。(「たまたま、ミスプリで#が落ちてしまった楽譜が今までずっと印刷を重ねられてきた」という説と「山田耕筰が、日本的な旋律にするために#を消してしまったという説がありますが、前者には無理があります。原曲の楽譜が残っているし、山田耕筰氏も昭和時代まで活躍したので、ミスプリに気がつかない訳はありません!意識して#をとってしまったのでしょう。)

たった一つの音ですが#があると無いとでは、全く違う旋律になってしまいます。
後世の人間が勝手に旋律を変えてしまっていいものでしょうか?(リズムや伴奏等を変えるのは編曲の域としても、旋律を変えることには大いに疑問があります)瀧廉太郎が可哀想に思えます。
「自分が作曲したフレーズは、それでは無い!」と草葉の陰で、嘆き怒っているのではないでしょうか?
スロバキアの先生が「#が付いた旋律の方がもの悲しくて良い!」と言いました。私もそう思い、2005年.4月のスロバキアでは「#」をつけて歌いました。(瀧廉太郎に敬意を表し!)昨今、原曲に忠実に楽譜を見直すべきだという論議も聞かれるようになってきました。文部科学省も、このままでいいのか考えて欲しいと思います!

【荒城のモデルは?】

これも、色々な論がありながら、?のままでいましたが、よく調べると謎なんかではなく、単純なことでした。“荒城の月”は、土井晩翠の詩であり、詩が先にあり、それに瀧廉太郎が曲をつけたので、両氏の「心の中の城」は異なって当然なのです。
土井晩翠は、東北の仙台市生まれ。生まれ故郷の「青葉城」や、訪れたことのある会津若松の「鶴ヶ城」をモデルにして詩を書いたそうです。
そして、瀧廉太郎は、その詩を受け取り、音をつけるにあたり、漠然と城を想像するのではなく、故郷の竹田市の岡城址で完成させたと言われています。(「“荒城の月”の本当のモデルはこちら!」と火花を散らし合うことは無いのです。この3つの城、どれも正解!!)

【「滝」?「瀧」?】

 教科書や楽譜には「滝廉太郎」と記されています。記念館や資料、ポスターは「瀧廉太郎」です。後者が正しいのだと思いますが...これも、統一していただきたいものです!文部科学省さ〜ん!

*明治12年に生まれ、明治36年に世を去った「瀧廉太郎」。日本人で初めてドイツに留学しましたが、病気のため志半ばで帰国した廉太郎。23年の生涯はあまりにも短かすぎます。無念だったことでしょう。
でも、嬉しく誇らしいことに、日本人のみならず、世界中の人たちのもとで“荒城の月”が今も生き続けています!(2006.1.記)

 ♪♪ 「歌碑」や「音楽記念館」を訪ねることをライフワークにしたい思っています。
各モデルの城の他に詩人.土井晩翠の故郷である仙台市に詩碑が建立されていて “荒城の月”の詩が刻まれているということです。
また、都内(千代田区一番町)の瀧廉太郎宅跡地にも“荒城の月”の曲碑があるようです。そう遠くない日に訪ねたいと切望しています! ♪♪