ソット・ヴォーチェ



ポルトガル紀行 T

 「吉元恵子と行くポルトガル」ツァーに参加して下さったS女史からお便りが届きました。
「毎日、うだるような暑さですね。ポルトガルのあのメリハリのある気候が懐かしいです!」とありました。
今年は梅雨明けが遅く、湿度の高い蒸し暑い日が続いていました。このお便りに急かされたように
ポルトガル旅行のまとめにとりかかりました。(8/1〜)

現在、日本からの直行便は無く、ポルトガルへ行く場合はまず、ヨーロッパの主要都市へ飛び、そこから乗り換えて行きます。
私たちは、ブリティッシュ・エアウェイズを利用し、ロンドンで乗り継ぎ、リスボンの空港に着きました。
ポルトガルは1年を通して温暖な気候で旅行には最適と聞いていました。特に、6月から9月までは乾期で、雨に遭うこともありません。
昼間は暑くて30度まで気温が上がっても、朝晩は涼しいのです。
何よりも、カラッとしているので、日中の暑さも辛くありませんでした!
そんな体験をしてきたので、冒頭のSさんのお便りにある“メリハリ”がよく解りました。

【訪れた町と世界遺産】
5/30. 日本を午後1時に発ち、リスボンの空港からバスに乗り、着いた町は「エストリル」でした。
ヨーロッパ有数のリゾート地で、ポルトガルで一番大きなカジノがあり、シーズンにはリッチな人々であふれるとか..
深夜に到着した私たちは、5つ星ホテルというのに、付属のマーケットで両替をして、ただ眠るだけの初日でした。

5/31. 早朝、エストリル海岸を皆で散歩。この先もいつも共に行動することになりますが、気の合った人達でホントに良かったと
思いました。この日から同室のS女史(後のイザベラ?)は、疲労回復に..と朝夕“抹茶”を点ててくれました!
私たちは、「ポルトガルの旅」を案内してくれる、バス(ドライバー)とガイドさんを待ちました。
たまたま、1番にロビーに集合した私たち...。S女史は、立て続けにガイドさんに「日本の方ですか?独身ですか?いつからこちらに住んでるんですか?...」と質問しました。
私も旅行社のH氏も唖然としました。二人とも、内心尋ねたいと思っていたことを、ためらいも無く一瞬のうちに聞いてしまったのです。彼女だからできることです。あっぱれと思いました。
そのうち、他のメンバーも集まり、いよいよ出発!(ガイドさんはスペインの舞踊家と結婚し、リスボン在住のモトキさん.ドライバーは、サッカー大好き!ドアルテさん) 一日で3カ所を巡ります。日本で仕事をしている人を想えば、幸せなことです!

 “谷間の真珠”と呼ばれるオビドス

なんて素敵な呼び名でしょう!到着する前からワクワク..期待を裏切ることなく“おとぎの国”と思える可愛らしさで迎えてくれました。
 1282年オビドスを訪れすっかり魅了された王妃イザベルにディニス王がプレゼントした町だそうです。以後1834年までオビドスは代々の王妃の直轄地となり、現在もなお、城壁に囲まれ中世のままの姿をとどめているのです。
小さな古城でお茶を頂くために、石畳の坂道を直進しますが、途中のお土産屋さんに誘惑されながら、メンバーがだんだん、
バラバラになっていきました。自由散策ですからそれも結構!..白壁に軒先の色とりどりの花が美しかったこと!
サンタ・マリア広場で見た“罪人が吊り下げられた柱” サンタ・マリア教会内部の全面アズレージョの素晴らしさ等々。
自分が居る時間が、いつの時代であるのか判らなくなるひとときだったと思います。

カルダス〜ナザレ

後ろ髪引かれる思いで、バスに乗った私たちは、カルダスの朝市を体験させてもらいました。地元の人々のホントに庶民的な市場でした。
野菜も果物も、お世辞にもきれいではありませんが、安いのでしょう。気取ることなくそこで買ったものを試食し、会話を楽しむ場でもありました。我がメンバーも、さすがプロの主婦(?)しっかりとお買い得のものを発見する目はあります。
ここで、購入した、生ハム.サラミ.オリーブ.果物等はその夜の宴会に出されました。

早起きをすると一日は長いんですね!そろそろお腹も空いてきました。カルダスを後に昼食が待っているナザレに向かいました。
「ナザレ」と聞くと、キリストが育った町(イスラエル)を想像する人が多いようですが、ここポルトガルの「ナザレ」は独自の風習を残す漁師町でした。
今回の旅の目的「ファド」とも深く関係のある町であることが解りました。
フランス映画「過去をもつ愛情」(原題「テージョ川の恋人達」)の中で、“暗いはしけ”をアマリア・ロドリゲスが歌ったシーンで世界的に「ファド」が知られたと言われていますが、その映画の舞台となったのがこの「ナザレ」でした!

私たちは、長い砂浜に面したレストランで昼食をとりました。真っ白な砂と真っ青な海を目前にし、幸せなランチタイムでした。
ガイドさんが「ポルトガルには、赤.白の他に緑のワインがあります」と教えてくれたので、素直な私たちは「ヴェルデ」で乾杯!
 食後は、ケ−ブルカーで展望台に向かいます。この中で私たちは、♪〜登山電車ができたので、だれでものぼれる〜と、“フニクリフニクラ”を歌いました。貸し切りではありませんが、地球は我々中心に回っているって感じで、感情のまま、のびのびと歌った私たちでした。たまたま他の客様たちが、拍手なんかしてくれると調子に乗る(乗れる?)グループでした。
崖上のシティオ地区は眺めが素晴らしく、夏はポルトガル国内はもとより、ヨーロッパ中からバカンス客が訪れるそうです。
私たちの行った日も、多くの観光客で賑わっていました。ナザレ伝統の既婚女性の民族衣装が見たくて、探しました。
居ました!...7枚重ねのそのスカートを一枚一枚めくって見せてくれます。今ではこの出で立ちをしている人達は、土産物を売るおばさん達なので、サービスで見せて、品物を買ってもらう訳です。我がメンバーのSSさんは、そのおばさんに乗せられてナッツを買う羽目に...
でも、何物にも代え難い愉しい思い出ができたと思います。皆、青い空の下、童心に返りました!
伝説のマリア像を祀るノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会は、南国の植物に囲まれ、他には無いムードを醸し出していました。

聖母マリアの奇跡が起こった聖地「ファティマ」へ

ナザレで昼食をとり、遊び疲れた私たち..バスで次の訪問地「ファティマ」までは、みな瞼が重くなりました。
ガイドのモトキさんは伝えたいことや説明するべきことを、だいぶ短くまとめて下さったと想像します。(お昼寝も、夕刻からの鋭気を養うために大事なんです。ここは、ラテン系の国です!)
 
第一次大戦中の1917年、3人の子供達の前に聖母マリアが出現するという奇跡が起こったと言います。
当時はオリーブの木が点在しているだけの荒れ地だったが、今は荘厳な教会が建ち、カトリックの聖地となっています。
1981年、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世がバチカンで狙撃されました。その日は偶然にも、ファティマに聖母が初めて現れた5月13日だったのです。
重傷を負った法王はその後、奇跡的に回復し、マリア像の御加護があったと解釈し、翌年の5月13日に御礼参りとしてファティマを訪れたと伝えられています。

いつも巡礼の人達が絶えないファティマのバジリカ(教会)は540m×160mという巨大な広場を前に、65mのネオクラシック様式の建物が建っています。広場の収容人数は30万人以上。毎月13日、特に5月と10月の大祭には10万人もの巡礼者で埋め尽くされるそうです。
バジリカ前の広場中央にキリスト像が立っていて、その足元から泉が湧き出ていて飲むこともできます。
左側には聖母マリアが祀られている白いチャペルがあり、初めて子供達の前に現れた場所でもあり、ロウソクの火が絶えないといいます。熱心な信者はその周りを祈りながらひざまずいて回っている姿が見られ、古い聖堂と違い、信仰の生々しさが感じられる場所でした。バジリカ内には、奇跡を目撃した3人の子供のうち2人の墓がありました。
 *信者たちは、ロウソクを買って捧げますが、病気や怪我をした人達はそれぞれの治したい体の部分のロウソクを選びます
  。そのロウソクは、体中のあらゆる箇所の形があり、とても大きくて、グロテスクで驚きました!

マリア信仰と言えば、イタリアやスペインにも有名な地域がありますが、この「ファティマの地」における、想像を絶する“マリアの大きな存在”に、なぜか胸が熱くなりました。巡礼者で維持されているであろうこの町は、ホテルもお土産屋も、マリア像や宗教絵画等で溢れていました。私は、カトリック信者ではありませんが、ずっとマリア様を崇拝していました。
“アヴェ・マリア”を歌う時は、様々なマリア像を見ます。教会に行くと、キリストより、マリア像を探してしまいます。その優しいお顔は、“世界中の人々の母”にも見えます。今後、“アヴェ・マリア”を歌う時は、きっと「ファティマのマリア像」が浮かぶに
違いありません!

この夜のホテルは、バジリカが目の前に見える中心地。聖地ファティマのホテルらしく、壁には十字架が飾られていました。
私たちは、レストランでの夕食後、男性の部屋に全員集合し、その十字架の下で“酒盛り”..いいえ“反省会”をしました。
もちろん、キリストやマリア様があふれている町ですから、みな自分の部屋へ帰りました。(当然!!)
翌朝は、また早い!...起きれるかな〜?  おやすみなさい マリア様.

  
      

                治したい部分のロウソク