ソット・ヴォーチェ



2005.春 “プレショフへの道程”
日本から東欧諸国に行く場合、直行便は稀です。
スロバキアに入る場合は、オ−ストリアのウィ−ンまで飛び、そこから空港のある都市へは飛行機を利用し、他は、列車や国際バスで移動します。
目的地の“プレショフ”は、スロバキア共和国の東にあり、オ−ストリア側に近い首都ブラチスラヴァより、ポ−ランドの方が近いのです。
「歌唱コンク−ル」に招待はされたものの、ぎりぎりまで、どのようなコ−スで行くのか悩みました。
前回(2001年)は、ブダペストを観光してからスロバキアへ入国することにしたので、ウィ−ンまで直行便で行き、そこでハンガリア航空に乗り換え、まず降り立った地はハンガリアでした。
そして、今回との大きな違いは、通訳や全てお世話をして下さるI教授が出迎えて下さったことでした。何の不安も心配も抱くことは無く、「歌うこと」だけ考えていればよかったのです。ブダペストに2泊し、スロバキア入国はI教授の自家用車でした。有り難いことに、舞台衣装の入った大きなトランクを苦にすることもありませんでした。
今度はあまりに状況が違います。ウィ−ンからのバスと列車を検討した上で、プレショフへは、ウィ−ン西駅発の国際列車にしました。
終着駅はポ−ランドの国境近くの「コシッツェ」です。プレショフには止まりませんので、途中の「キサク」に下車し、大学側の方に車で迎えに来て頂くというプランにしました。
もうサポ−トをして下さる教授は頼れませんし、当然とは言え個人旅行は、トランクも自分たちだけで運ばなければいけません。「海外は初めて」という学生の引率も兼ねています。いよいよ責任重大!
幸い、以前も同行して下さったYさんが、ピアノを引き受けて下さったので感謝感激です。彼女は常に、英語の勉強を続けているので心強くもあります!私の、はったりのドイツ語.スロバキア語にYさんの英語をミックスし、か弱い(?)女三人だけの旅...じたばたしても仕方がありません。決行です!
 ●4月7日.8:20 ウィ−ン西駅発.IC405はキサク駅到着14:40予定です。あくまでも「予定は未定」ですから、遅れても気にしないのがヨ−ロッパ!7時間は乗りました。
私達の車両は、ドア付きのコンパ−トメントの一等車。6人用の個室を3人だけで優雅に占領。ウィ−ンを発ち、スロバキアに入ると英語も思うように通じなくなります。目的地までは、私達3人の城に誰も乗って来ないことを願いながらも、大きなトランクの積み卸しを手伝ってくれる、素敵な男性が乗り合わせてくれることを秘かに期待していたような気がします。
とうとう、キサクまで3人だけでした。後で解ったことは、この国際列車に、私達ほど長い区間を乗る人は居ないということです。車窓から人々の乗り降りを見ましたが、一等車以外が地元の人で混雑しているようでした。スロバキアの物価を考えると、一等車は高くて利用できないのでしょう。私達は、足を伸ばしたり、時には自由に位置をを換え、予想外に、長時間の列車の旅を疲れることなく過ごせました。
貴重な体験としては、国境越えです。オ−ストリアとスロバキアの境の駅で停車し、出入国審査が行われます。列車内での国境越えは初めてですから、少し緊張しました。パスポ−トとチケットを提示するだけで、すんなり済みましたが、スロバキアがEUに加盟する前は、荷物を厳しく調べられたり、物々しいものだったと聞きます。ただ、東洋人の私達三人娘(?)には、興味あるらしく、車掌も審査官も事務的に終えず、どこから来たのか?とか、どこへ行くのか?等いろいろ尋ねたがりました。こういう時は、ニコッと笑い、私達コトバがわかりません?..という表情をするのが一番です。この列車に乗るため、どれだけ早起きしたことか!...国境越えの頃が眠さのピ−クで、私は何もかも面倒でした。(この緊張感の無さは、他に二人がいることにもよると思いました)外の景色は、まだ雪が残っているところもあり、花々の開花はまだのようでした。春浅き東欧の景色は、つつましく、華やかではありませんでしたが、確実に春の鼓動が感じられ、列車の走るリズムは春に向かう音にも聞こえ、うららかな陽射しとともに、私を心地良い眠りの世界へも度々誘いました。
さて、この「眠り」と共に、避けて通れない自然現象ですが...。7時間も列車の乗っていると、トイレに行かない訳にはいきません。体を動かさなくても昼食時には、しっかりと空腹感をおぼえます。
まず最初に、この国際列車のトイレを偵察に行ったのは、一番若いKさん(弟子)でした。当惑したような表情で戻った彼女に「どうだった?」と尋ねると「ひどいの!何年前のか判らないようなトイレットペ−パ−でしたよ」と言うではありませんか。「エッ!国際列車よ。私達、ロ−カル線に乗った訳ではなく、ウィ−ンから乗ったのよねェ」と言いながらも、内心、余程のこと以外は驚かない自信がありました。(ロシアや中国..共産国の“究極のトイレ”を知っていましたから..まず、ペ−パ−なんか無い方が当たり前!)次に、ピアニストのYさんが「私が見て来るわ」と座席を立ちました。そして、帰ると「あんなものよ。色は黒いけど、何年か前の古いのでは無いわ!」と言いました。
Yさんは、以前に東欧に来ていたので、このレベルのトイレットペ−パ−を承知していたのです。「な−んだ、それだけのこと?」..最後に私が行ったところ、何故か水浸し!クツが濡れるので帰って来てしまいました。他の二人が行った時は水浸しではなかったと言います。反対の車両の方に歩いて行くと、遠慮もなくジロジロ私を見ます。
一等車でこのトイレ..なら二等車は?..確かめることもせず席に戻った私です。昼食は、できるだけ飲み物を避け、ウィ−ンのホテルの朝食時に余分に頂いておいたパンで済ませました。今後、この列車で見た、灰色で硬そうな(実は、見た目ほど硬くないのです)トイレットペ−パ−と付き合うことになります。それにしても、日本の良い時代に生まれ育ったKさんにとって、トイレットペ−パ−は“白くて柔らかいもの”..学用品や印刷物も良質の紙しか知らない筈です。今、日本の楽譜は世界一、高級かも知れません。だからと言って、その楽譜で勉強した者が、世界一の音楽家にはなれません!この旅は、以前には気づかなかったことや、様々な価値観について考えさせられる旅になりました..。
列車内の締めくくりが、“トイレットペ−パ−”の話題では、何ともさみしい感があります。この路線のハイライトを紹介し、締めくくることにします。
目的地に近づいた頃、車窓に表れた、スロバキアが誇るタトラ山脈(ポ−ランドとの国境にまたがる連山)の美しさは、今も忘れられません!銀白色の山々は、真っ青な空に描かれたように見えました。この“壮大なパノラマ”を目にすることができただけでも、この列車に乗った価値があったと思えました!!
 (列車到着後については、次の「スロバキアの人々」に続く)   

        

 ウィーン発 IC405の前                                      一見 三人娘