ソット・ヴォーチェ



「下總皖一.童謡音楽賞」は團伊玖磨先生を蘇らせてくれました!
20世紀の終わりから21世紀にかけて、「日本歌曲」を不動のものに築き上げた作曲家達が次々と逝ってしまいました。2000年5月.中田喜直氏逝去。2000年10月.高田三郎氏逝去。2001年5月.團伊玖磨氏逝去。(文化交流団として訪中時に蘇州にて逝く)
三氏とも多くの名曲を残し、日本の音楽史上に燦然と輝く音楽家です。私は諸先生の作品を演奏会で歌わせて頂くこともあり、直接のご指導を受ける機会にも恵まれ幸運だったと思っています。

中田先生.高田先生については、このHPに掲載しましたが、團先生については思うようにまとめられずに居りました。実は2001年の春「日中文化交流」で訪中した折、むこうでお会いしたばかりだったのに、数日後、急逝の報に接することになり、ショックが大きかったのです。そんな訳で数年間、團先生の死が信じられずに過ごしてきました。
この度、“下總皖一童謡音楽賞”なるものを受賞することになり、改めて下總皖一先生と團伊玖磨先生との師弟関係を知ることになり、「不思議な縁」を感じました。
 下總先生の伝記からと團先生のエッセイからも、作曲科の学生時代のエピソ−ドがありありと伝わり、感動しました。そして、「團先生のことを書き留めるのは今だ!」と思えました。

【以下.“團伊玖磨自伝”より】

東京音楽学校(現.芸大)時代、下總教授は専任であった為もあってか、恐ろしい程の厳格な教育を僕に課し、今考えても、気の遠くなる程の量の和声、対位法、実作の宿題を与えるのだった。それは殆ど不可能と言える程の量だった。
しかし、口惜しいので徹夜を続けては全部の解答を書いて持って行った。
作曲の授業は一人対一人の授業である。先生はその多量の解答の中で一カ所でも誤りや書き違いがあれば、五線紙を破くことも稀では無かった。
破いた上で、その屑を二階の教室の窓から捨てて、拾って来いと言う事さえあった。
一人対一人の授業なのに、二つ以上の誤りがあれば、僕を立たせ、10分も15分も睨み付ける事もあった。
ところが、他の学生の話を聞くと、下總先生は優しくて怒る事も無いし、叱る事も無いと言うのである。それを聞いて、どうして先生が僕にばかり辛く当たるのか思い悩んだ。
 ずっと経って卒業してから、ある時、先生に僕は訊ねた。「先生は随分、沢山の宿題を出しましたね」..先生の答えは意外だった。「全部解答を書いてくると思って宿題を出した覚えは無いよ。馬鹿正直に全部書いて来たのは後にも先にも君だけだった。君は馬鹿正直すぎたんだ。ほめられた事じゃ無い」 「他の学生には先生は優しかったんですってね」「うん、君はね、口惜しがらせれば口惜しがらせる程、勉強する奴だったんだ。僕はそれを見抜いていた。そして本物を作ろうと思ったんだ」
僕はその時になって、下總先生の本当のありがたさを知った...。


團伊玖磨の才能を、早くから見抜き指導した下總皖一教授..その存在のお陰で、現在のオペラ「夕鶴」があり、国民的抒情歌「花の街」があり、子供の大好きな「ぞうさん」が在るのだ!と思わずには居られませんでした。
團先生は広いジャンルで数え切れないほどの作品を残していますが、一般的に知られた、上記の二つの名歌にまつわるお話を紹介したいと思います。既に、お弟子さんや周りの方達に話されたり、エッセイ等でも知られていることかもしれませんが、お亡くなりになる数日前に、中国で直接伺ったお話であり、私にとっては生涯の宝物ですので、自分なりに記録しておくことにしました。

♪「ぞ−うさん、ぞ−うさん、おはながながいのね..」の歌い出しで親しまれているこの歌について。
戦争中、動物園の象が餓死や毒殺された..という話は有名ですね?戦後、動物園に象が居ないので、日本の子供達がインドのネ−ル首相に「象を下さい」と手紙と絵を送ったことがきっかけで、自分の娘インディラの名を付けた象が上野に贈られたのだそうです。
そのインディラのお披露目の時のために、依頼され作った歌がこの「ぞうさん」だったと言うことを聞きました。(昭24)
悠々と、紅白の幕から象が出てくる時、児童合唱団が團先生の指揮で「ぞ−うさん」と歌ったというのです。(象の歩調と、この歌のリズムがピッタリで名曲です!)
このお披露目の時の子供達の歓声は、今も忘れられないとおっしゃっていました。そして「ホントに平和が来た!」と思ったそうです。現代っ子にも無邪気に歌われている歌ですが、誕生のいきさつを知り、こみ上げるものがありました!

♪日本国民が誰でも知っている「花の街」は昭和22年、團先生がまだ無名だった頃、作曲したと言われていますが、時代を感じさせない瑞々しさが漂い、今も歌い継がれています。
NHKの依頼で、江間章子さんの詩を受け取った時は、その美しい言葉に感銘し一気に書きあげたと言うことも伺いました。
この歌がラジオから日本中に流れた頃、日本はまだ焼け跡だらけ..闇屋が横行し、進駐軍相手の娼婦が夜の街に立ち...現実の日本は「花の街」どころでは無かったそうです。食うものも無く地下壕に暮らしている人間のことも忘れて「花の街」とは何事か。ふざけるのもいい加減にしろ!..と怒った手紙を何通も受け取ったそうです。詩人の江間さんは、だから希望を持っていつか日本中に花があふれるようにしようと、團先生を励ましてくれたと言います。
 私は、この曲の3番の歌詩が気になっていましたので、團先生にお尋ねしてみました。 
“すみれ色してた窓で 泣いていたよ 街の角で”..が、“...街の窓で”になっている譜面もあるので「印刷ミスですよね?」...と。それに対して、江間さんが教科書のために解説した文のことを教えて下さいました。

***「花の街」は私の幻想の街です。戦争が終わり、平和が訪れた地上は瓦礫の山と一面の焦土に覆われていました。その中に立った私は夢を描いたのです。ハイビスカスなどの花が中空に浮かんでいる、平和という名から生まれた美しい花の街を。
“泣いていたよ街の角で..”の部分は戦争によって、さまざまな苦しみや悲しみを味わった人々の姿を映したものです」***(教芸.資料)

「街角..街の様子.なのだから“窓”じゃないことが解るでしょう?」と團先生はニコニコ。真実は一つなので、印刷ミスなど気にも留めていない様子で、毅然としておられました。愚問だったかしら?と内心、恥ずかしい気もしましたが、スッキリしたのも確かです。
(やっぱり、ミスプリ...自分があちこちで指導してきたことが正しくて良かった!と思いました。“マド”と“カド”響きが似ています。先のフレ−ズに“マド”があるので、余計間違いやすかったに違いありませんが、しっかり校正をして出版をして欲しいものです!)

ラジオ歌謡として流れた曲が、今では中学音楽の教科書の常連曲に!教科書出版をしている会社の譜面は正しい詩になっています。作者たちは、それで満足しています。「戦後のラジオ番組のために作った歌が、半世紀も歌い継がれるなんて夢にも思わなかった。創作する者にとってこれ以上の幸せはない..」と語られました。あとは指導者や演奏する側に託されています。しみじみと思います。「どんな曲に対しても無頓着ではいけない!」と。(原詩は「花の街」でしたが、教科書に載ることになった時、「花のまち」と平仮名に改めたと言うことも、数年前に知った私でした。)

 私のような者が、「下總皖一.童謡音楽賞」を頂くことになりましたことに感謝し、
微力ながらも、素晴らしい先生達の情熱や意志を、伝えるべく丁寧な歌を歌い、後進の役に立てますよう、努力したいと心を新たにしました。
     2005年1月20日 「彩の国 下總皖一童謡音楽賞」表彰式の日に。

    しもーさかんいち先生ホームページ:http://www.town.otone.saitama.jp/bouken/shimosa.html