ソット・ヴォーチェ



◆スロバキアの人々◆
1993年にチェコと分離・独立したスロバキアの面積は、日本の約8分の1です。
国土のほとんどが山岳地帯であり、北部はポ−ランド国境にまたがって、タトラ山地が横たわっています。
東部には東スロバキア平野が広がり、ブドウの栽培が盛んで、スロバキア産のワインは評判が高く、地元の人々は「世界一美味しい!」と言います。
それぞれの地方では、伝統文化を守っており、素朴で古きヨ−ロッパの香りが色濃く感じられる国だと思います。
スロバキア第3の人口を持ったプレショフの町に向かった私達は、国際特急列車の停車駅、キサクに降り立ちました。プレショフ大学の教授であるリボミ−ル氏がホ−ムに立って出迎えてくれました。
再会の喜びを分かち合い私達は、彼の車に大きな荷物と共に乗り込みました。キサクからプレショフまで3〜40分は乗ったような気がします。
途中、車は少なく、大きなビルも見あたらず、幾つかの小さな村の中を通り抜けました。
 以前、訪れたプレショフや、歌唱コンク−ルのこと等を想い、ドキドキしていましたが、その思いを上手く伝えられず、じれったい私でした。聞くところによると、リボミ−ル氏が出迎えることに決まったのは、英語が話せるから..ということでした。お互い、外国語としての英語ですから、理解し合うことが大変!と先が思いやられました。(この国では、母国語以外の外国語として、英語より、ロシア語やドイツ語を話す人が多いということです。)

私達はプレショフ大学内のゲストル−ムに宿泊することになっていました。
到着して判ったことですが、それは、学生の寄宿舎の中にありましたが、スム−ズに入れて貰えず、閉口しました。
社会主義の名残か、教授より寮管のオバサン(失礼!)が偉そうにしているのです。
「外国からの客があることなど聞いていない」と言い張り、融通が利かない感じなのです。大学事務側との連絡がうまくいっていなかったのだと察知しましたが、招待した私達を目の前にして、教授は汗だくで、そのオバサンに必死でお願いしているようでした。
10分位の問答があり、やっと部屋の鍵をゲット!私は、ここに2泊するからには、このオバサンのご機嫌をとらなくては!と咄嗟に思い、日本からのお土産を渡しました。(いつも正面入り口の窓口に座っているので、出入りする度に彼女と顔を合わせない訳にはいかないのです)
案の定、最初は無愛想だったオバサンも、その後は柔らかな表情になりました。
部屋は、バス.キッチン.付きで、リビングにはソファ−セットが置かれ、寝室にはベッドが二つありました。一見「さすがゲストル−ム!」..と満足しましたが、難題が潜んでいました。
夕刻の歓迎のレセプションに出る前に、シャワ−でさっぱりしようとしたのですが、何と、お湯が出ないのです!私達は途方にくれました。
本番前夜にシャワ−が使えないなんて?!教授を通して例のオバサンに伝えて頂いたのですが、あっさりと「故障でしょう」と言うだけで、見にも来ないし、誰かに頼む様子もないのです。「ああ、これが社会主義国なんだ。自分の仕事ではないことに関しては、動く必要も無く、お湯が出ないことは運が悪かったね」ってことでしょう...
 ビザが不要になり、滞在も簡単に済むと思い込んでいましたが、宿泊にあたり難解な書類を書き込まなければいけなく、歌うことより大変に思えました。
スロバキア語のその書類の内容を説明して下さったのは、プレショフ大学.音楽科で、最も英語が堪能らしいス−ザン先生でしたが、彼女も一行一行、私達に伝えるのに苦心しているようでした。
以来、ス−ザン先生は、私達の案内や世話役として、尽くして下さいました。聡明で美しく優しいス−ザン先生は、忘れることができない人になりました。

“歌唱コンク−ル”を挟み、短い滞在時間の中で、リボミ−ル先生とス−ザン先生は、私達の為に市街地に連れて行って下さったり、民芸品のお店の案内もして下さいました。
プレショフの町では、偶然、感動的な場面に遭遇しました。その日は、ロ−マ法王パウロ二世の告別式の前夜と言うことで、聖歌隊と共に、多くの市民がロウソクを手に祈りの行進をしていました
。(町中にある教会を回るようでした)パウロ二世はポ−ランド出身の方で、この地は、ポ−ランド国境に近く、パウロ二世が若かった時に滞在した建物も在り、皆、誇りに思い、親しみを持っているようでした。法王様のことを「パパ」と呼んでいるのです!
日本でニュ−スで聞いた時は、遠い世界の出来事のようでしたが、ヨ−ロッパの地に立ち“パパを失ったカトリック教徒達の悲しみ”がひしひしと伝わり、単なる「ヴァチカン王国」の悲しみではないことがよく解りました。
私達も、法王様の記念の建物の前で、祈りに参加させて頂き、一つの歴史の終わりをハッキリと感じとったような気がします。

【シャワ−の謎】
プレショフ市民とともに黙祷し、以前も感じた“映画のセットのような”整然とした町並みを散策し、宿舎に帰りました。翌日、ステ−ジで歌うことを控え、どうしても諦め切れず、シャワ−をしつこく、いじってみました。「お湯が出る!」私は叫んでしまいました。私達の推理...

@学生の寄宿舎内なので、学生たちが昼からシャワ−を使用しないように、節約して、日中は出ないようにしている。
A元々、すんなりとは出ないので、諦めずに蛇口と格闘しなければいけなかった。
B故障していたが、夜まで修理してくれた。

Bでないのはハッキリしました。(翌朝、迎えてくれたス−ザン先生が「シャワ−が故障していてごめんなさい!」と言いましたから..)
そう!あのオバサンが、後に何とかしようと努力してくれたとは思えません。彼女は受付の椅子に根を張ったように動かないのですから..。@かAと思うのですが、それにしても不思議です!そのように説明してくれればいいのにと思います。あのオバサンの「故障でしょう」という言葉を信じて、あっさりと「ごめんなさい」と言うのは教授達...。それぞれに、真相を追求しないのが、私には大きな謎のままです!(そう言えば、これに似たことを、ロシアや中国でも体験しました)..ともあれ、無事3人ともシャワ−を浴び、コンク−ルに出演したことを書き留めておきます。

【新しい出会いと交流】
“コンク−ル”ということで訪れたお陰で、今回ならではの出会いと感動がありました。
コンク−ルに出場した若者達の真摯な姿からは、清々しさを.審査にあたられた教授やゲスト審査員(オペラ歌手)からは、若者に対する温かな愛情を感じ取ることができました。
合唱部門では、学生だけでは無く、指揮をした先生や伴奏を担った先生にも、それぞれの音楽性に対して賞を与えられました。『Moyzesiana』のコンク−ルを通して、それに関わる全ての人たちから「自国の音楽を愛し、守っていこうとする精神」を学びました。
 コンク−ル終了後のレセプションは、審査員、学生、指導した先生達..皆、一堂に会し、実にアットホ−ムなム−ドでした。学部長や主任教授が、ドリンクやオ−ドブルを運び、事務関係者や門番(?)が、厳しい目をしていたスロバキア...これは私の出会った人がたまたまかも知れませんので、これを読んだ方には、偏った先入観が植え付けられませんように!と思っていますが..。
ス−ザン先生.スロバキア歌劇団のプリマドンナのマリアさん.白のドレスで合唱指揮をされたチャ−ミングな先生.歌唱コンク−ルで将来性のある歌を聞かせてくれた学生たち..そして、私が敬愛し、永遠の友情を信じているシムチ−ク教授兄弟(ダニエルandリボミ−ル).有り難うございました!
短い滞在でしたが、音楽で結ばれた絆は強く、色あせることはないと確信しています。「私の声帯が元気なうちに再会できますように!」と思い、帰りの列車に乗ったことを覚えています。

(*これをまとめている途中で、シムチ−ク教授達が11月に来日という報あり。こんな  に早く再会できるとは!...)