ソット・ヴォーチェ



高田三郎先生の思い出C

 2000年10月22日。高田先生が他界しました。カトリック信者でしたから、周りの方達は、「帰天」と表現し、穏やかでした。私は、ショックと悲しさで取り乱しました。同年5月に、上野文化会館で米寿記念コンサ−トが開催され、多くのお弟子さん達によって高田三郎作品が演奏され、盛況でした。先生もニコニコとお元気だったのに...どうして?20世紀最後の秋に逝ってしまうなんて! 10月21日夜、銀座王子ホ−ルにて私はリサイタルを開催していました。同年5月のゴ−ルデンウィ−クに逝ってしまった、中田喜直先生を偲び、「日本のおもちゃ歌」を歌っていたのです。その頃、高田先生は苦しまれていたのでしょうか?翌日の夕刊でニュ−スを知り、呆然としました。どうして一緒に21世紀への橋を渡って下さらなかったのですか?もっともっと若い人達に、音楽の本質を伝えて欲しかったのに..。少なくても私は、道標を失いました。
今だから言えることですが、2001年の1月は歌える状況ではなく、10年ぶりに「日本の音楽展」を欠演しました。
 先生の教えが次々と思い出される日々が続きました。
まず一番に浮かんだこと..ベ−ト−ベンの葬儀の時、尊敬する偉大な作曲家のために、シュ−ベルトが棺をかつぐ一人に加わった話は有名ですが、先生は強く胸に残っていて、ご自分も師である信時潔氏の葬儀の時、棺を運ぶひとりになって、心からお礼を言ったというエピソ−ド。ちっぽけな私は、ずっと遠くから見送るしかできませんでしたが、同じ思いでした! 謙虚な先生は、「作曲で本当に自分のものと手ごたえを感じたのは、やっと50歳の時だった。丑年でスロ−モ−だから仕方がない...」とおっしゃいました。
50歳からスタ−トと考えるのでしたら、もっと長生きして頂きたかった!帰天なさり、向こうでも作曲をしなければいけなかったのでしょうか? 今、私は素晴らしい先生のことを伝えようと「高田三郎先生の思い出」を書き込むことで、元気になっています。昨秋のリサイタルでは、初めてのレッスンを思い出し、「パリ旅情」を歌いました。「パリの女性は黒を上手く着こなすよ..」その言葉を忘れずに、お洒落な黒いドレスで歌いました。ありがとうございました!
天上では、貴重な出会いを下さった神様によろしくお伝え下さいませ。

  「感心する音楽はたくさんあるが、感動する音楽は少ないなあ-」..このお言葉を、道標にさせていただきます! 吉元恵子